険のある話



今日もコンビニ弁当にするか何か作るかどうしようかなぁ、などと、定時近くなった仕事場でボンヤリと考えておったところ、仕事を頂いている会社の方に食事に誘われました。
去年は大変な仕事でしたね会、ということでした。


コンビニ弁当が、高級懐石となりまして、まったくもって、地獄を這いずり回っていたところを天国に引き上げられたようなものです。


その方はたいへんバランスの良い頭の良さを持った方で、真実の意味で現実を見て、よい仕事を、よい人生を、と考えている人で、上司にするなら最高の人ではないでしょうか。
ご馳走になった上に、楽しい時間を過ごさせていただきまして、本当によい一日でした。


その中で、ボンヤリと考えていたことがありました。


勝ち組、負け組、などという言葉が世間を席巻し、…おっ?セケンをセッケン?
…いや、違うんです。
そんなことを言いたいのではなくて、お金を手に入れた者が幸福である、というような風潮が、最近よく見られるという話です。
また、そういう生き方が、賢くスマートな生き方であるというような雰囲気が、今の世の中には漂っています。


しかし、こんなことを改めて言うのも憚られるぐらいの話ですが、お金というのは人間が幸福に生きるための一つの道具に過ぎません。


まるでそれが人生の目的であるかのように、他の何かを捻じ曲げてでも、時には自らの幸福を犠牲にしてでもお金を手に入れるなど、それは本末転倒、とんだ茶番というものです。


こういうことを言うと、もっと現実を見なさい、などと言われる向きもございましょう。
お金さえあればたいていの物が手に入る世の中です。
それに、組織の一部として経済社会を渡っていくには仕方ないのですよ。
組織が倒れればたくさんの人が不幸になります。
そうならないためには、たくさんのことを捻じ曲げ、犠牲にしなければならないのですよ、と。


しかし、それは違うと思うのです。
人の血の通わない経済の流れの中においても、それを動かしているのは人です。
一時の数字ばかりを見て、脊髄反射的な策ばかり打ち出しても、それは皺を他の場所に移しているだけに等しく、そのほころびはいつか必ず目に見える形で出てきます。
逆に、それがお客様に対してであれ、部下に対してであれ、上司に対してであれ、人が喜ぶような、よい仕事をしよういうところをベースにしていくことが、長期的に見れば結局は利益につながります。


まあ当たり前の話ですかね。
そういうことをしようとすれば、当然リスクを負わねばなりませんから、誰もそんなリスクを負いたがらず、責任を分散させてうやむやにしてしまいたいというのが、ほとんどの人の本音なのでしょうね。
しかし、そういうリスクを負うのが社長だとかそういう役職の人たちの仕事だと思うのですが。


っていうか、そうじゃないと居る意味なくねぇ?